サン=サーンスが老害おじさんになってしまった理由

どの世界でも「若手に苦言を呈するベテラン」っているものです。今風の言い方だと「老害」などと言われてしまったり。老害という言葉自体は新しいものでしょうが、この類の老人は昔からいたのでしょう。プラトンがそんなこと言ってたとか、古代エジプトでもそのような書物があったとかいう話も出回っていますが、流石にそれらの話の信憑性はあやしいとのこと。
参考:http://55096962.at.webry.info/201410/article_17.html
まあその辺りの話は置いておくとして、苦言を呈してしまうベテランは当然音楽の世界にもいます。クラシック音楽界の頑固オヤジ、探せばいっぱいいるのでしょうが、特に悪名高くなってしまっているのはカミーユ・サン=サーンスその人ではないでしょうか。
サン=サーンスはフランスの作曲家、1835年にパリで生まれ、1921年に旅行先のアルジェリアで亡くなっています。フランスにおける後期ロマン派の中心人物といってよいでしょう。代表作に『動物の謝肉祭』(『白鳥』が特に有名)、『交響曲第3番「オルガン付き」』などがあります。


モーツァルトと並び称された神童タイプで(クラシックの作曲家はそういう人多いですよね。今までに一体何人の作曲家がモーツァルトと並び称されたのか数え始めると大変なことになりそう)、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲を手がけ、16歳で最初の交響曲を書いたということで、天才の名をほしいままにしたのは想像に難くありません。その後は国民音楽協会を設立し、フランス音楽界の中心人物として長きに渡って活躍しました。
しかし、活躍した期間があまりに長すぎたのかもしれません。19世紀末から20世紀初頭にかけてラヴェルやドビュッシーなど印象派の作曲家たちが登場し、一世を風靡。ロマン派の語法で晩年まで作曲を続けたサン=サーンスは時代遅れの作曲家として潮流から取り残されてしまったのです。
取り残されたサン=サーンスですが、楽壇での地位は高かったので、主だった作曲家の新作の初演などには大抵呼ばれます。しかし若い作曲家たちは聴いたことのない新しいスタイルの曲を次々と聴かせてくる……。この状況がサン=サーンスを「老害おじさん」に仕立て上げてしまったわけです。
ということでここからは実際にサン=サーンス御大による老害発言の数々を見ていきましょう。

ラヴェルによる初期の名作ピアノ曲『水の戯れ』


これを聴いた御大のコメントは一言、「不協和音に満ちた作品」。
当時としては確かに新鮮な響きだったのでしょうが……。

若かりし頃のドビュッシーがローマへの留学時に書いた交響組曲『春』


当時フランス芸術アカデミーの会員だったサン=サーンスが、提出されたこの曲に対して残したコメントが「嬰ヘ長調(♯6個の調)は管弦楽曲にふさわしくない」。
曲の本質とはあまり関係のないところで批判してますね。むしろ印象派独特の浮遊感を出すのにこの調性は適しているという見方もできるのでしょうが、結局この曲はアカデミーで受理されないという憂き目を見ます。

20世紀近代音楽の幕開けを告げた、ストラヴィンスキーの『春の祭典』


ディアギレフ率いる前衛バレエ集団、バレエ・リュスのために書かれたこの曲。初演時に肯定派と否定派で大激論となり、劇場内が演奏を聞けないほどの喧騒に包まれたという逸話も有名ですが、その場にサン=サーンスもいたそうです。ただ、サン=サーンスはおそらくその喧騒を目にすることなく会場を去っています。この曲の冒頭は伴奏なしのファゴットによるどソロなのですが、そのフレーズでとても高い音が使用されています。あえて低音楽器であるファゴットに高音を吹かせることで、どこか物哀しい民族的なフレーズを際立たせる狙いがあったと言われていますが、これがサン=サーンスの癇に障ってしまったようで、「楽器の使い方を知らない者が作った曲は聴きたくない」と、早々に席を立ってしまったそうです。器楽作品はその楽器の一番美しい音が出る方法で書かれるべき、という頑なな信念があったのでしょうね。

極め付けのエピソードとして、20世紀前半のフランスを代表するピアニストとなったアルフレッド・コルトーがパリ音楽院で学んでいた際に、御大は「へえ、君程度でピアニストになれるの?」と言い放ったそうです。なれたので笑い話になりましたが……。

とまあ御大のエピソードを集めてみましたが、なかなかアクが強いものばかりですね。当時の若手からすれば大きな目の上のたんこぶだったことでしょう。
しかしサン=サーンスさん、もちろんただの老害ではありませんでした。例えば先ほど出てきた国民音楽協会ですが、これが設立されたことで、もともと声楽作品が重要視されがちだったフランス音楽界が器楽作品にも目が向けられるようになりました。これが印象派の作曲家たちが生まれる流れを産んだと見ることもできます。また、サン=サーンスに散々批判されていたドビュッシーですが、「サン=サーンスほどの音楽通は世界広しといえどもいない。」とその知識に関しては尊敬の念を持っていたようです。また、『動物の謝肉祭』の中の「水族館」は平行和音という印象派がよく使った和音手法を使っていたりするそうです。『動物の謝肉祭』自体当時の音楽家や批評家を皮肉って作られた曲なのですが(そのため生前は「白鳥」以外の曲は演奏を禁じられたそうです)、それだけ批判しておいてその手法をしれっと取り入れてしまうあたり、実はサン=サーンスはツンデレだったのではないかなどと邪推してしまいます。

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